D for ALL~人一人ハ大切ナリ~

ダイバーシティ推進の取り組み

特別懇談 ダイバーシティ科目 「同志社の良心と
ダイバーシティ」

同志社大学学長

植木 朝子

全学共通教養教育センター所長

川口 章

キリスト教文化センター准教授

森田 喜基

学長補佐/ダイバーシティ推進委員会委員長

阪田 真己子

本学は、2023年4月から全学共通教養教育科目にダイバーシティ推進科目である
「同志社の良心とダイバーシティ」(秋学期・オンデマンド科目)を設置し、
多様な生き方と価値観を尊重し、他者の立場に立って考えることができる人物の育成をめざします。
今回、新設科目設置の趣旨や科目にかける思いなどについて、
科目担当者が懇談を行います。

シンパシーだけでなく
エンパシーを身につけた人の育成を

学長補佐/ダイバーシティ推進委員会委員長

阪田 真己子

阪田本日は、今年4月から新たに全学共通教養教育科目に加わる「同志社の良心とダイバーシティ」に関して、科目の趣旨、科目にかける先生方の思いなどをお話しいただきます。まず植木学長から、この科目の趣旨などをご説明ください。

植木同志社大学は現在、創立150周年に向けた「同志社大学VISION 2025」に沿って改革を進めています。その重点課題の一つがダイバーシティ推進です。本学は2021年3月にダイバーシティ推進宣言を公表し、翌4月にダイバーシティ推進委員会を学長のもとに設置しました。同委員会での議論を経て、当面の中心課題として「男女共同参画・ライフサポート」「多文化共生・国際理解」「障がい学生支援」「SOGI(Sexual Orientation and Gender Identity)理解・啓発」という4つの柱を置き、多様な取り組みを進めています。

私はマイノリティへの理解を深める前に、自分が当たり前のように享受しているマジョリティの特権に気づくことが最も重要だと思っています。新科目の授業では登壇される先生から、学生に読んでほしい本を1冊ずつご紹介いただくことになっています。私はブレイディみかこ氏の『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)という本に非常に感銘を受けました。この本が出た2年後には、続編ともいうべき『他者の靴を履くアナーキック・エンパシーのすすめ』(文藝春秋)が刊行され、話題になりました。「他者の靴を履く」とは、英語の慣用表現で「他者の立場で考える」という意味です。

『ぼくはイエローで〜』は、当時中学生だった息子の学校生活を中心に、今のイギリスが抱える貧困、差別、分断などの諸問題を見つめるエッセイです。そこにsympathy(シンパシー)とempathy(エンパシー)という、2つの言葉にふれる箇所があります。どちらも「共感」と訳されることが多いために混同されがちな言葉です。本の主旨をまとめると以下のようなことになろうかと思います。

私たちは気の毒だと思う立場の人や問題を抱えた人、自分とよく似た意見をもつ人たちに対しては自然に共感することができます。それは自分で努力しなくても自然に出てくる、感情的な共感であるところのシンパシーです。しかしダイバーシティ推進のためにはそれだけでは不十分であり、自分と違う理念や信念をもつ人や、気の毒だとは思えない立場の人々が一体何を考えているのかを想像する力、すなわちエンパシーが必要です。それが「他者の靴を履く」ということでしょう。

エンパシーは理性的で知的な作業です。国籍、文化、性別、性的指向、政治、障がい、宗教などを学問的に学ぶことによって知識をもち、多様性を理解できるエンパシーを身につけた学生を、本学も教育機関として育てる必要があると強く思います。

もう一点重要なのは、本学の大学教育の根底に、創立者新島襄の「人一人ハ大切ナリ」という理念があることです。学生・教職員の一人ひとりが「自分は大切にされている」と感じられるキャンパスを作るために、具体的にダイバーシティ推進に取り組んでいきたいと思います。

阪田本学の教育の原点「良心」を表すconscienceには、本来「共に知る」という意味があります。今のエンパシーと、まさに重なる言葉ですね。川口先生は全学共通教養教育センター所長として、新科目設置にどのような期待をしておられますか。

川口期待は主に二つあります。一つは学生がダイバーシティの基本知識を身につけることによって、大人としての良識ある行為を行うことの一助にしていただきたいということです。もう一つは多様な考えを取り入れることによって、同志社大学の教育効果の向上を期待します。ただダイバーシティは、多様な構成員の間に格差、不信、対立を生む可能性もあります。では何が必要なのか。equality(平等性)とinclusion(包摂)です。互いを気遣って思いやる姿勢を忘れずに、より良い学びのできる教育環境の創造を期待しています。

新島の「人一人ハ大切ナリ」という生き方を
授業で共有していきたい

キリスト教文化センター准教授

森田 喜基

阪田授業の構成を教えてください。

川口まずダイバーシティの総論から入り、性の多様性、ジェンダー平等、多文化共生、障がい者支援という4分野の各論に移ります。森田先生には、別の切り口からダイバーシティを考える授業として「キリスト教とダイバーシティ」をお願いし、最終授業は植木学長が登壇します。15回の授業を各分野の第一線で活躍されている先生にお願いしますので、学界の最先端の議論にも触れていただけるものと期待しています。これら4分野については、関連科目が各学部に幅広く設置されています。今回の新科目で基礎を学び、個別の分野をさらに深めたい学生は、より専門的な科目を受講していただきたいと思います。

阪田森田先生にはキリスト教文化センターの先生として、新科目への登壇をお願いしています。実は推進委員会の会議を重ねる中で、例えばセクシュアリティの問題はキリスト教主義に反しないのか、といった質問が出ることもありました。そのあたりも含めて、先生が本学のダイバーシティ推進に期待される事をお聞かせください。

森田例えばアメリカには日本の報道ではいわゆる「プロテスタント福音派」として紹介される、キリスト教原理主義の人たちがいます。しかし、キリスト教自体はとても多様です。新島襄がアメリカで触れたプロテスタントの教派は会衆派教会(Congregational Church)と呼ばれるものでした。イングランドからアメリカに、信教の自由を求めて渡ったピルグリム・ファーザーズと呼ばれる人々がその源流で、彼らはボストンを中心に会衆派教会を設立しました。会衆派には1700年代初頭に奴隷廃止を訴えた牧師が既にいたり、世界初のアフリカ系アメリカ人牧師や初の女性牧師が誕生したりと、すべての人の自由を大切にしてきた伝統があります。新島襄よりも後の時代ですが、アメリカの会衆派は第2次世界大戦後、他の教派と合同し、アメリカ合同教会(The United Church of Christ)となりました。その教派は、世界で最初にカミングアウトした性的少数者が牧師になった教派でもありました。

聖書には「性的少数者を認めない」と書いてあるのでしょうか。そういう意味に読めなくはない箇所は、実際にあります。しかし例えば、旧約聖書には「ひれやうろこのないものは、食べてはならない。」(レビ記11章)と書いてあります。そのまま実行すれば、鰻丼は絶対に食べてはいけないことになりますね。では、それをすべてのキリスト教徒が守っているかというと、私はそれを忠実に守っている人に会ったことはありません。大切なのは何を中心に読むかです。聖書が書かれた当時、例えば障がいをもつ人は自分や親が罪を犯したからそういう状況にあるのだと考えられ、ユダヤ教の中で差別を受けていました。イエスはその人たちのところへ行き、彼らの尊厳を回復しました。同志社が大切にしてきたキリスト教のあり方は、そういう弱い立場にある人、一人ぼっちの人と共に歩まれたイエスという存在を、中心に据え、ロールモデルとするものです。「人一人ハ大切ナリ」も、新島の欧米旅行中に退学になった7名の生徒に対して、心を痛めて語った言葉です。同志社がダイバーシティを推進し、セクシュアリティの問いに向き合うことは、そのキリスト教主義の伝統と相いれないのではなく、むしろごく自然なことなのです。

旧約聖書の冒頭にある「創世記」では、天地創造後、神は創ったものすべてをごらんになって「見よ、それは極めて良かった」(創世記1章31節より)と言っているんですね。創られたすべての存在を神は「良かった」としている、すわなち「すべての人がそのままで素晴らしい存在である」というのが、聖書の人間理解です。そういうお話も授業で皆さんと共有し、共に掘り下げたいと思います。

「日本の常識は世界の非常識」を
学んでほしい

同志社大学学長

植木 朝子

阪田民主主義の象徴ともいえる会衆派の考えを新島先生がもち帰られたことに加えて、学校設立に右腕として尽力した山本覚馬も、視覚障がいと肢体不自由のあった重複障がい者でした。覚馬の妹の八重は、戊辰戦争では断髪して鉄砲を抱えて戦った人です。伝統的な考え方や性別役割分業観に固執しない女性でした。その人たちが、自由を基点としたダイバーシティ・マインドをもち、個人の尊重を求めて一緒に作った学校が同志社であることを、学生にはぜひ知ってもらいたいですね。では新科目における先生方のテーマをお聞かせください。

植木自分と異なる背景、文化、信念などをもつ他者への想像力が、ダイバーシティ推進の土台になります。その想像力を養うためには文学作品も一端を担えるのではと思い、「文学からダイバーシティを考える」というテーマを準備しています。一人の人間が体験できる事には限りがあります。そこで小説の登場人物や作者という他者を自分と重ね、その人たちの経験や人生を我がものとして生きる体験をしてほしいと思います。それによって他者への理解を深め、人としての幅を広げてほしいです。

盲学校の先生が書いた『目の見えぬ子ら』(赤座憲久、岩波新書)という本があります。戦前の話ですが、戦況が激化して配給が滞ってきたとき、最初に物資が来なくなるのはそういう学校であると。目の見えない子たちは国の役に立たないからというのが理由です。特に冬は暖房の燃料が手に入らず、授業ができないと書いてありました。私は最初、意味が分からなかったのですが、それは、盲学校の子たちは点字で教科書を読むので、手がかじかむと指先の感覚がなくなって本が読めなくなるという意味でした。寒いと手がかじかむことも、目の不自由な人は点字で本を読むことも、経験として、また知識としては分かっています。でも「寒いと本が読めない」というふうには想像力が働かなかった。自分が体験する範囲を超えたところでの、このような気づきは大切だと思います。

川口私は「男女格差と役割分担」を担当します。「日本の常識は世界の非常識」であることが、この授業で一番訴えたいことです。これは1985年に制定された男女雇用機会均等法の法案を作った、当時の労働省婦人少年局長、赤松良子さんの言葉です。赤松さんが国会議員や財界人と面談した際、彼らから「女性の幸せとは、外で働かずに子どもや夫の世話をすることだ」と言われたそうです。赤松さんは、日本ではそれが常識だけれど、世界ではまったく非常識な考えだと嘆いています。

それから40年近く経った現在も、日本の状況はそんなに変わっていません。むしろ外国との差は拡大しています。日本の女性は男性の5・5倍のアンペイドワーク(不払い労働)を行なっています。大半が家事育児です。これはOECD加盟国のうちデータが公表されている30カ国で、最も大きな格差です。世界経済フォーラムが発表する「ジェンダー平等指数」ランキングでは、146カ国中、日本は経済分野で121位、政治分野では139位。日本では育児などを女性が中心となって担うという社会規範があるため、なかなか男性と同じような働き方ができない。したがって、子どもが生まれたら仕事を辞めて子育てに専念する女性が多いという悪循環があります。この状況を変える政策を国も企業も取っていく必要があるし、家庭での役割分担にまで踏み込んで考える教育が必要だということを、学生に伝えたいです。

森田私は大阪市生野区で育ち、当時通った小学校の児童の6割は在日コリアンでした。そこでは日本人の方がマイノリティなのですが、学年で1人だけコリアンでも日本人でもない、他の国籍の友だちがいて、その子のことを皆がいじめているのを見たとき、「あぁ差別とは本当に、多い方が少ない方を、その違いだけをもって排斥することなのだ」と思わされました。様々な差別が私たちの生きる社会にも存在しています。このクラスを通して、そのようなことに関心をもつことがスタートです。マザーテレサは「愛の反対は無関心である」と言いました。愛の対義語は憎しみではなく、無関心なのです。

ダイバーシティは
「役に立つ」からではなく
「存在を認める」ことから始まる

全学共通教養教育センター所長

川口 章

阪田この授業には二つの使命があります。一つはアカデミアとしての使命です。40年前と結局変わっていない日本社会に、人類の生きる知恵を蓄えてきたアカデミアとして新しい価値を創造していくことが、私たちの使命です。その一翼を担う学生さんたちには、旗を振る存在になっていただきたい。もう一つは同志社としての使命です。現代は「誰ひとり取り残さない」というフレーズが国際的に共有されています。同志社は既に150年近く前から、それと同じことを意味する「人一人ハ大切ナリ」というスローガンを脈々と受け継いできました。その同志社がダイバーシティ推進に取り組むという意味で、やはり大きな使命を担っていると考えます。では最後に、授業で紹介される本について教えてください。

川口自著ではありますが、『日本のジェンダーを考える』(有斐閣)という本です。10年前の著作なので、当時から一部の制度や法令などは変わりましたが、主張自体はそれほど古くなっていません。広く日本のジェンダー問題、特に性別の役割分担、職場での問題などを中心に書いています。外国人が学ぶ日本語の教科書にも採用されていますので、読み物としても興味をもっていただけるのではと思います。

森田『あなたが気づかないだけで神様もゲイもいつもあなたのそばにいる』(平良愛香、学研プラス)です。著者の平良さんは、セクシュアルマイノリティであることをカミングアウトした上で、牧師になった方です。大学でも嘱託講師をされ、キリスト教と性の問題について授業をしてこられました。キリスト教とこの人自身のセクシャリティ、存在が何ら矛盾しないことを、半生を描く形で書かれています。

阪田私が紹介するのは『多様性の科学』(マシュー・サイド、ディスカヴァー)です。多様性が人類にとって必要である理由を、学術的な根拠に基づいて論理的に展開しています。ダイバーシティ推進は、よくビジネスに利用されたり、女性を上位職に登用していると会社のCSRに使われたりすることがあります。もちろん障がい者の視点で便利な製品が開発されることもありますが、「ダイバーシティは役に立つ」という視点は、やや短絡的です。それより、多様性が私たちの未来に何をもたらすのかという広い視野をもって、学生さんには学んでいただきたいという願いを込めた紹介です。

植木同感です。日本の場合、ダイバーシティの概念は経済産業省から入ってきた経緯があります。企業に多様性をもたらせばイノベーションが起こり、会社が発展するというように、多様性が利己的なものに利用されるような感じを抱きます。そこが心配です。そうではなく、まず一人ひとりが大切であり、しかもそれらがバラバラでは意味がなく包摂されている状態が、ダイバーシティなのです。

阪田何かの役に立つという視点は分かりやすいとは思いますが、違うこと、多様であることそのものに価値があるのですね。

森田フランス人権宣言では、人は出自に関係なく能力に応じて平等であるという文言が発表されましたが、「能力に応じて」という言葉が入っていたために、当時の社会が要請する能力に適応しなかった障がい者は、残念ながらその当時、人権を得られませんでした。その時代毎のある種の要請に対して、「役に立つか」「立たないか」で社会は、人を選別し、そこから差別が生まれるという構造は、今日、セクシャルマイノリティの人々に対して、「生産性がない」という言葉が発せられることにも当てはまります。聖書は、「役に立つ」こと以前に、先ほど述べました通り、人間存在そのものが既に良しとされていることを語っています。

川口ダイバーシティが企業にとって利益になるかどうかは、私は経済学者なので非常に関心のあるところであります。一般にジェンダー・ダイバーシティが進んでいる企業は株主から非常に良い印象をもたれるため、株価に良い影響があるようです。最近興味深く思ったのは、女性の管理職の割合と男性の育児休業取得の割合との間に、強い相関関係が見られることです。一つには社内にジェンダー平等が浸透していくことによって、女性が昇進しやすくなり、男性も育児休業が取りやすくなるという仮説があります。また、インタビュー調査では、男性が育児休業を取ると、その会社の女性が自分の夫にも家事育児の分担を要求するようになるという事例もありました。

阪田一つの会社や組織が変わることで、ほかの組織に波及するものがあるということですね。大学はそういった影響力の中心にあるべきです。そして、こうして13人の先生がダイバーシティを複眼的に語ってくださることこそが、同志社の財産です。同志社大学が「人一人ハ大切ナリ」の精神を引き継ぎながら、ダイバーシティマインドを備えた人物を育成し、社会全体を変えていけるような立場であり続けてほしいと思っています。

Pick Up

「ダイバーシティ」とは「多様性」のことです。性的指向、性自認、性別、国籍、民族、障がいの有無などに関わりなく、多様な人々が互いを尊重し、思いやり、自分に誇りをもって生きていける社会を創ることが、今の私たちにとって重要な課題となっています。この授業では、主に性の多様性、ジェンダー平等、多文化共生、障がい者支援を取り上げ、それらの現状を学び、なぜそれらの理解が重要かについて議論します。授業を通して、多様な生き方、多様な価値観を尊重し、他者の立場に立って考えることができる人物の育成をめざします。

文部科学省 令和3年度科学技術人材育成費補助事業 「ダイバーシティ研究環境実現イニシアティブ(調査分析)」に選定