差別の経済学
ジェンダーや人種などに基づく差別は、今日でも依然として世界中で根深い問題として残っています。職場や教育の場、社会的な機会において、女性やマイノリティが不平等な待遇をうける事例は少なくありません。しかし歴史を振り返ると、これらの差別はかつてと比べて大きく軽減されてきたことも事実です。法整備や社会運動、企業の取り組みなど、多様な分野で平等を推進する努力が行われ、一定の成果を収めてきました。
差別は社会的問題として長い歴史を持ちますが、経済学の分野でも差別の影響について広範に研究されてきました。このコラムでは、差別が経済に及ぼす影響を経済学の視点から検討します。
ゲイリー・ベッカーの「差別の経済学」
差別は教育機会や労働市場における採用・昇進、賃貸住宅市場、ひいては消費市場においても存在します。これらの差別は労働供給や所得分配、消費活動などを歪めることで経済全体の効率性や経済成長に負の影響を及ぼします。
「差別の経済学」はゲイリー・ベッカーのThe Economics of Discrimination(Becker, 1971)から始まりました。ベッカーは白人男性経営者が黒人やヒスパニック、女性を雇用することに対して偏見や嫌悪感を持っている場合の労働市場について理論的な分析を行いました。このような潜在的な差別があると、労働市場において特定のグループに属する人々が同等のスキルや経験を持っていても、他のグループに比べて低い賃金で雇用されたり、昇進や採用の機会が制限されたりすることがあります。このような不平等は、才能ある労働者が潜在能力を十分に発揮する機会を奪い、ひいては経済全体の効率性を損なうことになります。ベッカーはこの研究による功績も含めて、1992年にノーベル経済学賞を受賞しています。
アローとフェルプスの「統計的差別理論」
ベッカーは特定のグループに対する偏見や嫌悪感が差別を生み、結果的に経済に負の影響を及ぼすことを明らかにしましたが、どのようにして偏見や嫌悪感が生まれるのかについては言及していません。それに対して、ケネス・アローとエドムンド・フェルプスによって提唱された「統計的差別理論」では、人々が偏見を持たない場合でも、特定のグループに対する差別が生じうるメカニズムが示されています(Arrow, 1973; Phelps, 1972)。
例として、ある会社の経営者が雇用の決定を行う場合を考えてみましょう。経営者はなるべく生産性の高い人材を採用したいと考えていますが、応募者の生産性を事前に正確に把握することは困難です。このとき、経営者は応募者の生産性を予測するために、応募者が属するグループ(性別や人種など)の平均的な生産性を参考にするかもしれません。この場合、もしその会社における特定のグループの生産性が他のグループと比べて有意に低いとされている場合、新たに応募してきた個人も生産性が低いと見なされ、結果的に差別が生じる可能性があります。
統計的差別は、一見合理的な判断の背後に差別が潜んでいる点が重要です。また、この種の差別を受けているグループの人々は、個々の能力とは無関係に、教育やスキルアップの機会を奪われることが多くなります。その結果、グループ全体の平均生産性がさらに低くなり、それが再び差別を助長する「差別の再生産」が起こる可能性もあります。
差別の経済的損失
差別は人権に関わる問題であり、金銭や経済的な側面とは無関係に、決して許されるものではありません。しかし、差別がどの程度の経済的損失を生んでいるのかを把握することには一定の社会的・学術的意義があります。人権に加え、経済的な視点からも差別撤廃を訴えることで、より広範かつ強力な活動を促進できる可能性があるためです。
チャン=タイ・シエらの研究グループは、米国における性別・人種別の職業選択や平均賃金の違いを分析することで、1960年から2010年までの50年間に差別の大きさがどのように変化したかを数量的に明らかにしています(Hsieh et al., 2019)。その結果、1960年から2010年の間に米国で達成された経済成長のうち、およそ3分の1が教育や労働市場における差別の解消によって実現されたことが示されました。これは、差別の撤廃によって個々人の能力が無駄なく発揮されることの経済的価値が非常に大きいことを示す強力な証拠であり、今なお大きな差別が残る国・地域には、差別の撤廃によって大幅な経済成長を遂げる可能性が秘められていることを示唆しています。
積極的格差是正措置 (affirmative action)
アローとフェルプスの「統計的差別理論」が明らかにしているように、差別は特定のグループが成功の実績を積み上げることを阻害します。その結果、自分の属するグループに成功者が少ない現状を見て、新たな挑戦に対して躊躇する人もいるでしょう。
このような事態を打開するために近年注目を浴びているのが「積極的格差是正措置 (affirmative action)」です。これは性別や人種、障害などを理由に社会的に不利な立場にある人に対して、格差を是正する目的で講じられる介入を指します。例えばインドの地方議会では議席のおよそ3分の1を女性のみが候補者として立候補できる選挙区として割り当てる「女性クオータ制」が取られています。日本の例だと、東京理科大学が2024年度入試から女性のみが出願できる「総合型選抜(女子)」という枠を設けたことが話題になりました。
積極的格差是正措置は長年にわたり蓄積されてきたグループ間の格差を解消する上で非常に有効なツールであり、今後もその活用が広がると予想されています。一方で、積極的格差是正措置は「逆差別」であると批判されることもあります。これは、是正措置によって特定のグループが優遇されることで、他のグループが不当な扱いを受けるという主張です。特に受験や就職の場では、過去の差別の清算のために現在の特定のグループに負担を強いる形となるため、逆差別を訴える声にも一定の説得力があります。
長期的な格差や不平等を是正するために、一時的な優遇措置が必要であることは明白です。一方で、ある特定の世代やグループに過度な不公正を強いることは避けなくてはなりません。各時点での公正な競争を担保しつつ、長期的な格差を是正していく。この困難な舵取りを進めるためには、社会に深く根付いた差別や不平等に目を向け、すべての人が真に平等な機会を得られる社会を目指す「良心に満ちた視点」が求められるのではないでしょうか。
参考文献
[1] Arrow, K. J. (1973). The Theory of Discrimination. In Ashenfelter, O., and Rees, A. (Eds.), Discrimination in Labor Markets, Princeton University Press.
[2] Becker, G. S. (1971). The Economics of Discrimination, 2nd edition, University of Chicago Press.
[3] Hsieh, C.-T., Hurst, E., Jones, C. I., and Klenow, P. J. (2019). The Allocation of Talent and U.S. Economic Growth. Econometrica, 87(5), 1439–1474.
[4] Phelps, E. S. (1972). The Statistical Theory of Racism and Sexism. American Economic Review, 62(4), 659-661.