Column
Vol.04

「やさしい日本語」 ― 言語的なダイバーシティへの第一歩

ベティーナ・ ギルデンハルト(グローバル・コミュニケーション学部准教授)

デパートで買い物をするとき、ときどき商品に関して質問したくて近づいてくる私の姿を見て、固まってしまう店員さんがいます。そして、私が日本語で声をかけると、「あっ、日本語がお上手でよかったです。私は英語が全然ダメなんです。」とほっとした顔で言ってくれます。一方、ドイツ出身の私は苦笑してしまいます。外国人が相手だからといって、英語を話す必要があるとは限らないからです。また、出身国によっては、英語が通じない場合もあります。しかし、日本ではあいかわらず外国人=英語という固定観念が根強いようです。それは英語を中心とした外国語教育および英語の世界共通語としてのイメージを考えると、無理からぬことかもしれません。しかし、多文化共生の観点からみると、とても残念なことです。

実は、観光客は別として、日本に滞在する外国人の多くは、情報発信言語として「やさしい日本語」を希望しています。東京都在住の外国人向けに実施されたヒアリング調査では、希望する情報発信言語として挙げられた「日本語・やさしい日本語・機械翻訳された母国語・英語・非ネイティブが訳した母国語」という選択肢の中で、「やさしい日本語」を選んだ回答者が最も多く、76%にものぼりました。この興味深い調査結果は、外国人出⼊国在留管理庁と⽂化庁が作成した『在留支援のためのやさしい日本語ガイドライン2020年8月』(3頁)で紹介されています。調査地域や対象者によって、結果は多少異なってくると思われますが、「やさしい日本語」が地域の共通言語としての重要性を増していることは間違いありません。「やさしい日本語」は1995年の阪神淡路大震災以降、外国籍住民に情報を伝えるツールとして活用されてきており、現在、行政の文章をはじめ、日本人同士の情報伝達の中でも注目されています。その中で、いわゆる「ハサミの法則(はっきり言う、さいごまで言う、みじかく言う)」が、分かりやすさの重要な目安になっています。ちなみに、欧米における「やさしい言語」の普及の発端は、1970年代に始まったpeople first という自己権利擁護運動にあり、その目的は知的障がい者や発達障がい者が情報にアクセスできる権利を保障することにあります。

現在、自治体の多文化共生推進において、「やさしい日本語」は多言語政策と並んで確固たる位置を占めています。「やさしい日本語」の普及に伴って、分かち書きや擬音語擬態語を使わないことなど、「はさみの法則」以外のルールも明文化されてきました。しかし一方で、「普遍的なやさしさ」は存在しないことを忘れてはいけません。ルールはあくまでも目安であって、ある表現が本当にやさしいかどうかを判断するのは、発信者ではなく受信者です。そのために重要になってくるのは、上記の『ガイドライン』(5頁)でも述べられている「柔軟な調節」です。相手に言ったことが伝わらない場合、同じ言葉を何回も繰り返さないで、表現を変えたり、具体的な例を言ったり、ジェスチャーをつけたり、絵を描いたりするなど、相手に伝わるまで諦めないで様々な方法を試してみることが大事です。もちろん、翻訳機械も、あれば便利ですが、その際にも入力する文章を簡略化したりするなど、柔軟な調節が求められます。言われたことをすぐに理解できないとき、「あっ、いいです」とコミュニケーションを中断されることが一番傷つくという話は、ろうの方から聞いたことがあります。これは日本語非母語話者の私にとっても非常に共感できるお話です。

「やさしい日本語」は万能薬ではなく、さまざまなコミュニケーションツールの一つにすぎません。しかし、少し意識すれば身近なところから身につけて、言語的なダイバーシティに貢献することができます。例えば、日常生活の中では、駅のアナウンスなどが本当に分かりやすいものなのか、もっと簡単にする方法はないのかを考察してみると、「やさしい日本語」の練習になるだけではなく、母語を違う角度からみた、言語的な気づき(language awareness)にもつながります。また、手話や外国語の学習もその気づきを促す効能をもち、表現を工夫したり、簡単にしたりする絶好の訓練になります。例えば、外国語ではまだ「公共交通機関」という単語が表現できなくても、「電車とバス」という単語であれば、初級レベルで習います。言いたいことをまず母語で簡略化してから外国語で表現してみると、語彙力がまだそれほど身についていなくても、様々な表現ができることに気が付くでしょう。

一方、「やさしい日本語」が単なるスキルで終わらないようにするために何より肝心なのは、言語的な「他者」との出会いを建設的なものにしようとする姿勢だと思います。つまり、「やさしい日本語」・外国語・手話・筆談・翻訳機など、相手とTPOに応じて可能または適切なコミュニケーション方法を探り、言葉の壁を乗り越えようとする姿勢のことです。その姿勢には、相手のニーズに柔軟に対応する調節力のみならず、通じない際の対応力および「間違った」、「ずれた」表現でも理解しようとする包容力も含まれます。また、言語的な弱者が諦め、分かったふりをしないで、自分のニーズをしっかりと伝える自己権利擁護も含まれます。場合によっては、それが負担や面倒に感じられることもあるかもしれません。しかし、高いと思っていた「言葉の壁」が少しずつ低くなり、互いに通じた瞬間の喜びと安心感は、コミュニケーション継続の原動力になるはずです。

『在留支援のためのやさしい日本語ガイドライン 2020年8月』

文部科学省 令和3年度科学技術人材育成費補助事業 「ダイバーシティ研究環境実現イニシアティブ(調査分析)」に選定