アンカリング効果とダイバーシティ
私が現在研究しているのは、行動ファイナンスという分野の学問です。これまでの伝統的なファイナンス理論では説明できない、いわゆる金融市場における「アノマリー」について理論・実証両面で分析を行なっております。この分析で中心的役割を果たすのが投資家(市場参加者)の心理です。合理的な経済主体(市場参加者)の行動が人間ならではの心理によって歪められ、理論的に説明がつかない非合理な現象、「アノマリー」を生み出します。
例えば、「アンカリング効果」という現象が現実の金融市場では見られます。これは、最初に得た情報が「アンカー」(錨)となり、その後の自身の意思決定に大きな影響を及ぼすという現象です。錨を下ろした船は限られた範囲でしか行動できません。例えば、ある銘柄の株式をたまたま資金に余裕ができたあるタイミングで、1株1万円で購入したとしましょう。この1万円に「アンカー」が下ろされ、その前後の価格が自身の「通常価格」になってしまい、その後の売買の意思決定に大きな影響を及ぼしてしまいます。1万円がこの銘柄のファンダメンタルズに基づく理論価格であるというエビデンスが得られていないにも関わらず、「この株はだいたい1万円くらいだろう」という認識の元に投資行動をしてしまう現象です。
ダイバーシティに関しても自身が得た最初の情報が「アンカー」になって、その後の意思決定に影響を与えていないでしょうか。私は、約25年前に本学経済学部の女性初の専任教員として赴任いたしました。赴任当初、経済学部の研究室棟に女性用トイレがなく、新たに造るかどうか議論となりました。1985年に男女雇用機会均等法が成立して約10年が経過していた当時、各大学(特に女性専任教員がいない学部)は女性研究者雇用を課題にしておりましたが、「1人か2人雇っておけばいい、増えて3人くらいだろう」という認識があり、結局トイレは造っていただけませんでした。
男女雇用機会均等法が成立して約40年が経過し、罰則規定等も時代に即して変化しておりますし、2015年には女性活躍推進法が成立し、女性にとって働きやすい環境整備が進められています。また、203030(2030年までに役員に占める女性比率を30%以上にする)も成長戦略として掲げられていますし、「男女平等」や「ジェンダーレス」という言葉は今や常識、当たり前の認識になっています。しかし、「女性の割合(人数)はこの程度だろう」という「アンカー」を下ろしたままにしている人はいないでしょうか。例えば、「女性研究者は3人くらい」という「アンカー」を下ろしている人は5人以上の雇用がある場合、「随分増えた、もうそんなに女性研究者を探さなくていい」という認識を持っていたりしていないでしょうか。あるいは「30%」に「アンカー」を下ろしている人は、女性雇用比率が30%に達したら「もうマイノリティーではないので十分」と思っていないでしょうか。
本学の校祖、新島襄の妻である新島八重は、開国間もない日本で洋装を見事に着こなし、英語を巧みに話していました。戊辰戦争の折には男装・断髪し、銃を握って戦った話はあまりにも有名です。アメリカで男女平等を目の当たりにしてきた新島襄は、当時の日本における女性像、性別役割分業観に「こうあるべき」という価値観を持っていませんでした。そんな新島だからこそ八重の生き方に惹かれ、彼女を伴侶として選んだことは必然であったと思います。激動する時代、大海原の航海で2人は「アンカー」を下ろすことなく、あるいは一度下ろした「アンカー」を引き上げ、常に新しい風を追い求めて同志社が生まれました。
団塊の世代、バブル世代、ミレニアル世代、そしてZ世代等、各世代を取り巻く自然・経済・社会環境は異なりますし、時代は常に流動的です。どの時点で「アンカー」を下ろすのかによって、一人一人の価値観は大きく異なってきます。最初に数値目標や努力義務を掲げ、制度として「男女平等」や「ジェンダーレス」を実装していったとしても、いつまでもその数値等に囚われていては真のダイバーシティ社会は実現できません。一人一人が「アンカー」を引き上げる意識や勇気を持たなくてはならないのではないでしょうか。